2月21~22日の第7回九州自然栽培研究会セミナーの締め切りは7日です。
内容も盛りだくさんですが、参加者も多いようです。
おそらく今までの最高の人の集まりになりそうです。
楽しく勉強しましょう。
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自然栽培を売りに農業をやっていくうちに
「自然栽培」という言葉に翻弄されている事に気がついた。
それまで必死に勉強してきた事が本当に大事なものだったのか?
自然とは何か?
自然栽培を追いかけて自然とはかけ離れている事をやっていなかったか?
このところ随分と考えてきたテーマだ。
大きく考えればそれも自然の流れであろうかと思う。
生物の流れを考えれば、困難に対処してきた結果として人間が頂点にいるだけ。
いつかしら人間は何もかもをコントロール出来ると勘違いしてきている。
自然栽培とは自然をコントロールして出来る栽培ではない。
だがそこには自然を見てきた人たちの積み上げが知恵としてあるからこそ。
ささいなことの積み上げが重なりあって今にある。
それらを一人でやろうとしても到底無理であり、時間が足りない。
だから先人の知恵を勉強し取り込むことでその先に進める。
自然とは?
その上に立つ経済活動で生きれる。
何かしら違和感を持つのは何でだろう?
そういう自分の中の疑問に答えは出てこない。
これからもやれることをやっていくうちに判ってくるのだろうか?
自然栽培とは何なのだろう?
誰かが決める定義があるのか?
自然の循環を利用させてもらう生産栽培方法という感じか?
では自然の循環とは何か?
自分なりに解釈すると
自然とは宇宙から始まる地球の環境そのもの
そこにある循環は科学にて解明されてきているものの判らない事だらけ。
自然の循環を利用するとなれば、そうとうの勉強をし大雑把でも知ることから始まる。
その知ることを放棄してしまえば何もできない・・か?
ところが自然は知らなくても生産が出来てしまう・・・
種を落とせばそこには成長が起きてくる。
人がコントロールできない何かの法則がある。
それを観察し法則を見つけだすことが方法になり
農法に発展してくる。
循環とはその法則を繋ぎ合わせていくことでなんとなくわかる程度ではないか。
考えれば考えるほど循環の理解は難しくなってくる。
だからこそ感じることが大事な気がする。
感じながら、そこにある法則を見つけながら
それを貪欲に吸収していく姿勢こそ循環を考える事になるのではないか?
今、毎日「土」を眺める。
草を抜くとその根の周りに小さな土がまとわりついている。
その土は綺麗な小さな丸い形。
これはどうして出来てきたんだろう?
その周りを見てもこんな土は見当たらない。
根と土は何かを起こしている。
大潮と言われる時期に植物は背伸びをする。
宇宙の法則を利用しようとする姿ではないのか?
はっとする瞬間、人の思惑に引きずりまわされることが恥ずかしくなる。
自然栽培という言葉に惑わされない事が自分の向かい方
本当の自然の流れを感じてこその自然栽培
まだまだ足りない事だらけに感じてしまう。