不自然な事

土曜日は熊本で、そして昨日は福岡での「降りてゆき生き方」を見てきた。
木村さんが来るので、久しぶりに話せるかと思いきや
そんな雰囲気はなく、すぐそばにいても機会が無かった。
そんなもんだな。
相変わらずの調子での話は、ずいぶんと聞いてきたので大方知っていること。
だけど何回も聞く事でそこに新しい発見があったりもするので
こうゆう機会は必要だと考える。
私は土に特化した追求をしていたので、土から上の事にはまだ疎い。
今後の課題は作物個々の探求になってくるだろうが
それは土の事がもう少し確信に至るまでは封印なのだ。
そこを相棒や娘たちがやってくれているという
分業みたいになっている。
いろいろやってくれるので、その後の研究は早くなっていくことだろう。
部分の解明と、総合的な解明とに頭を切り替えていくことにしているが
総合的な流れを頭に入れておかなくては
部分的な事では理解できないことがある。
これは内水氏の自然学から学んだことで
物事の見方を大きく見ていこうとする癖をつけているところである。
自然栽培においては
たとえば自然以外に何物にも頼らない事を「良し」とするが
実際はいろんな事象で人の手が入る。
そこに何かしら違和感を感じたりするのだが
その目的は何か?という事を忘れていないだろうか?
いろんな情報が入ってくるようになってきて
その仕訳を頭の中で出来るように訓練が必要だと思っている。
まずは何でもいいから情報を取ってきて
それを目的に合わせ仕訳し
その使い方を自分で考えてこそ自分のものになってくる。
そういう意味合いでは、こうゆう機会があれば
出かける事も多くなってくるのである。
まあ、言われた事しかできないのでは研究もくそもないのだが。
自分なりの追求の仕方からチャレンジに行きついて
それから広がる可能性はもの凄い感じがしている。
自然栽培に出会ったときの感覚とはまた違った興奮もある。
精一杯向かうからこそ、その可能性も見えてくるのだから
何もやらないままで批判だけするものは無視だ。
自分が納得できなくては不自然そのものであるのだから。
気が付いている人は、どういう行動を起こすかは言わずともいいだろう。
今、土とは何たるかが見えてきているのに
そこに目を向けようとしないとは
何と不自然な事なんだろう。