目からうろこ
目からうろこ
自然栽培に関わってその生産者から常に嫌われている、「動物性堆肥」に踏み込みたいと思う。
日本の農業は耕作農業だけではない。
畜産もたくさんある。
分野が分かれているけど、消費する方から見ると、みんな食べたい食材となる。
自然栽培で言う、「動物性堆肥は土にに良くない」のか?
結論から言うと、「動物性堆肥は、扱い方を変えればとんでもなく素晴らしい土壌改良剤になる」のだ。
私は長い間誤解していたようだ。
自然栽培の流れから、畜産とは相いれない関係ではないかと考えていた。
耕作農は自然栽培が最高だと思い、その技術獲得に思いを集中してきた。
そしてある程度のところまで来ていると思っている。
現場では土の状況による事があるので、生産物特に野菜関連はまだ時間がかかるのではないかと考える。
それで中途半端にやるよりも一回野菜の生産を辞めて、もう一回土を作ると言う方向に進めたいと考えている。
土には何も持ち込まない事を基本とするが、
「土壌生成理論」よりの腐植前駆物質の事を知ってからは
それを利用することで格段に早く土を作れると感じている。
もちろん、土を作るとはどういう事なのかが解ってきたからである。
「土を知る」事は今までの自然栽培では出来なかった。
土の事が理解されていないと思ったので、土に特化して追求し
その生成に至る過程を知ることとなる。
自然栽培においての土をどう作るかと言う命題を克服出来た瞬間に
自然栽培から排除されるような扱いになった。
今にしてみればどうでもいい事であるのだが、ショックは大きかった。
おかげで自然栽培の括りに縛られることなく、思う存分にやりたい事をやれる環境を手に入れた。
元来、自然栽培を中心に考えてきた事が間違いである事に気がついたのは最近。
生産方法によって優劣を決めること自体ナンセンスだ。
生産は何のためにやるのか?
人を中心に考えているわけだが、食べるために、それを販売して生活の足しにするため。
現在の貨幣による流通が普通になっている環境では稼ぐためにということになる。
そして生活を維持していくこと。
現代では食べるものに安全でないと思われるものがたくさん出てきた。
流通が行き過ぎた結果、効率だけが求められ、その中身をおざなりにしてきた結果だと思う。
食の安全はどこかに置いてきぼり。
だから安全なものを求める流れになり、それが生産現場にも求められることになってきた。
そこからさらに踏み込んで、食は人の体を作っていくものとして、安全は当たり前で
健康に寄与できるものを求めようとするのが今からの流れになっていくのだろう。
そう考えた場合
生産方法で優劣を決めることなどおかしなことだ。
食するもの、それ自体が大丈夫なものかを確認できることが必要となってくる。
安全なものを求めたら生産方法にまで語るのは理解できる。
でも、安全と確認できる方法を求めようとしてこなかったのはなぜだ?
あふれる農法だが、その安全性に何の根拠を持っているというのだろうか?
私は「土壌生成理論」に出会って、そのことを考えるようになった。
それは今までの農法が科学的に考えると理解できない部分が多く
それでいて執拗に農法にこだわる人がいることに疑問を持ったからでもある。
土壌生成理論はそれを見事に答えてくれていると感じる。
だから、「自然栽培という言葉にごまかされるな」というようになった。
自然栽培は、自然の循環を生産に取り入れていいものを提供しようということであろうと思う。
いつしかあれはだめ、それはおかしい、とかの方法論ばかりの議論。
出来上がったものの評価はどこでやるのだ?
ひとつの基準が腐敗実験
この腐敗実験にごまかされる。
生産物も有機物である。
有機物は腐敗するのか、枯れるのか?
いやいや、それは一部の変化であって、判断基準には出来ない気がしている。
それは単に酸化する様を見せているだけだ。
有機物は土に変化する。
今まではそのこと事態わからなかった。
だから完熟堆肥というものの意味さえもわからないままに使われる。
有機物がどういう過程を経て土になるのかがわかると
動物性の糞尿が素晴らしい資材に変化することがわかってくる。
そしてそこから生み出されるものは、けっして腐敗しない。
自然界の循環とはなんと凄いものであるのだろうかと驚かされる。
これが実現できてくると、とんでもなく素晴らしい環境を手に入れられる。
それらをこれから少しずつ積み上げて行きたいと思っている。
当然、生産物自体の確認方法も作り出していかねばならない。
これほどの楽しい仕事は他にない。
毛嫌いしていた動物性のものがとんでもなく素晴らしいものに代わっていくとなれば
まさしく目からうろことなることだろう。
自然栽培に関わってその生産者から常に嫌われている、「動物性堆肥」に踏み込みたいと思う。
日本の農業は耕作農業だけではない。
畜産もたくさんある。
分野が分かれているけど、消費する方から見ると、みんな食べたい食材となる。
自然栽培で言う、「動物性堆肥は土にに良くない」のか?
結論から言うと、「動物性堆肥は、扱い方を変えればとんでもなく素晴らしい土壌改良剤になる」のだ。
私は長い間誤解していたようだ。
自然栽培の流れから、畜産とは相いれない関係ではないかと考えていた。
耕作農は自然栽培が最高だと思い、その技術獲得に思いを集中してきた。
そしてある程度のところまで来ていると思っている。
現場では土の状況による事があるので、生産物特に野菜関連はまだ時間がかかるのではないかと考える。
それで中途半端にやるよりも一回野菜の生産を辞めて、もう一回土を作ると言う方向に進めたいと考えている。
土には何も持ち込まない事を基本とするが、
「土壌生成理論」よりの腐植前駆物質の事を知ってからは
それを利用することで格段に早く土を作れると感じている。
もちろん、土を作るとはどういう事なのかが解ってきたからである。
「土を知る」事は今までの自然栽培では出来なかった。
土の事が理解されていないと思ったので、土に特化して追求し
その生成に至る過程を知ることとなる。
自然栽培においての土をどう作るかと言う命題を克服出来た瞬間に
自然栽培から排除されるような扱いになった。
今にしてみればどうでもいい事であるのだが、ショックは大きかった。
おかげで自然栽培の括りに縛られることなく、思う存分にやりたい事をやれる環境を手に入れた。
元来、自然栽培を中心に考えてきた事が間違いである事に気がついたのは最近。
生産方法によって優劣を決めること自体ナンセンスだ。
生産は何のためにやるのか?
人を中心に考えているわけだが、食べるために、それを販売して生活の足しにするため。
現在の貨幣による流通が普通になっている環境では稼ぐためにということになる。
そして生活を維持していくこと。
現代では食べるものに安全でないと思われるものがたくさん出てきた。
流通が行き過ぎた結果、効率だけが求められ、その中身をおざなりにしてきた結果だと思う。
食の安全はどこかに置いてきぼり。
だから安全なものを求める流れになり、それが生産現場にも求められることになってきた。
そこからさらに踏み込んで、食は人の体を作っていくものとして、安全は当たり前で
健康に寄与できるものを求めようとするのが今からの流れになっていくのだろう。
そう考えた場合
生産方法で優劣を決めることなどおかしなことだ。
食するもの、それ自体が大丈夫なものかを確認できることが必要となってくる。
安全なものを求めたら生産方法にまで語るのは理解できる。
でも、安全と確認できる方法を求めようとしてこなかったのはなぜだ?
あふれる農法だが、その安全性に何の根拠を持っているというのだろうか?
私は「土壌生成理論」に出会って、そのことを考えるようになった。
それは今までの農法が科学的に考えると理解できない部分が多く
それでいて執拗に農法にこだわる人がいることに疑問を持ったからでもある。
土壌生成理論はそれを見事に答えてくれていると感じる。
だから、「自然栽培という言葉にごまかされるな」というようになった。
自然栽培は、自然の循環を生産に取り入れていいものを提供しようということであろうと思う。
いつしかあれはだめ、それはおかしい、とかの方法論ばかりの議論。
出来上がったものの評価はどこでやるのだ?
ひとつの基準が腐敗実験
この腐敗実験にごまかされる。
生産物も有機物である。
有機物は腐敗するのか、枯れるのか?
いやいや、それは一部の変化であって、判断基準には出来ない気がしている。
それは単に酸化する様を見せているだけだ。
有機物は土に変化する。
今まではそのこと事態わからなかった。
だから完熟堆肥というものの意味さえもわからないままに使われる。
有機物がどういう過程を経て土になるのかがわかると
動物性の糞尿が素晴らしい資材に変化することがわかってくる。
そしてそこから生み出されるものは、けっして腐敗しない。
自然界の循環とはなんと凄いものであるのだろうかと驚かされる。
これが実現できてくると、とんでもなく素晴らしい環境を手に入れられる。
それらをこれから少しずつ積み上げて行きたいと思っている。
当然、生産物自体の確認方法も作り出していかねばならない。
これほどの楽しい仕事は他にない。
毛嫌いしていた動物性のものがとんでもなく素晴らしいものに代わっていくとなれば
まさしく目からうろことなることだろう。